ブルースは19世紀末、米国南部の黒人たちが綿花農園などで歌っていた労働歌やフィールド・ホラー(叫び声)、霊歌が融合して生まれたアメリカ黒人音楽の原点です。アフリカ由来の「ブルー・ノート(長調とも短調ともつかない独特の不協和音)」と12小節の基本形式を特徴とし、苦難や哀愁を歌い上げるソロ形式として発展しました。W・C・ハンディがミシシッピ州タトウィラーの駅でスライドギターを弾く黒人に出会い衝撃を受けた体験(1903年頃)を機に楽譜化が進み、全米へ広まりました。この哀愁の音楽性はジャズやロックの骨格を形作ることになります。
「ブルースの父」と称されるW・C・ハンディが1914年9月に発表した『セントルイス・ブルース(St. Louis Blues)』は、ブルースというジャンルを世界的な流行へと導いたポピュラー音楽史上最も重要な楽曲の一つです。
ハンディが1892年にセントルイスの街で出会った、失意の中で生活する女性の言葉やメロディに着想を得て作曲されました。伝統的な12小節ブルースの形式にハバネラのリズムやタンゴ風の小節(Bパート)を取り入れた洗練された構成が特徴で、ポピュラー音楽とブルース、ジャズを完璧に融合させた金字塔とされています。
『セントルイス・ブルース』の歴史的録音の中で最も有名であり、音楽史上最高峰とされるのが「ブルースの女王」ベッシー・スミスによる1925年の録音です。
1. ベッシー・スミス & ルイ・アームストロング(1925年1月14日録音)
ベッシー・スミスの圧倒的なボーカル、若きルイ・アームストロングの哀愁漂うコルネット、そしてフレッド・ロングショウのリードオルガンのみで録音された伝説的音源です。
2. 短編映画『St. Louis Blues』(1929年作品)
ベッシー・スミスが主演を務めた短編映画です。彼女の歌唱映像が残された唯一の動く映像作品であり、合唱団や合奏団を従えて『セントルイス・ブルース』を歌い上げる姿を鑑賞することができます。
ベッシー・スミス(1894年 - 1937年)は「ブルースの女王」と称され、1920年代のアメリカ音楽界を席巻した史上最も偉大なブルース歌手の一人です。厳しく過酷な生い立ちから這い上がり、圧倒的な声量と豊かな表情力を武器に、差別や貧困、哀哀を包み込む壮大な歌唱で全米中の人々を魅了しました。ルイ・アームストロングら当時の最先端ジャズ・ミュージシャンとも数多く共演し、ジャズとブルースの架け橋となりました。1937年に自動車事故で43歳の若さで急逝しましたが、その感情豊かな歌唱スタイルは後代のジャニス・ジョプリンやビリー・ホリデイをはじめとするあらゆるヴォーカリストに多大な影響を与えました。
ベッシー・スミスの生涯
1894年テネシー州チャタヌーガの極貧の家庭に生まれたベッシー・スミスは、幼少期に両親を亡くしながらも街頭演奏で腕を磨き、旅回り一座(バドビル)に参加して歌唱技術を培いました。1923年のデビュー曲『Down-Hearted Blues』が80万枚以上の大ヒットを記録すると、「ブルースの女王」として一躍全米トップの黒人エンターテイナーへと上り詰めました。1920年代を通じてルイ・アームストロング等と共演し巨万の富を築きましたが、1930年代の大恐慌や音楽スタイルの変化により波乱のキャリアを歩みました。
自動車事故と「拒絶説」の歴史的エピソード
1937年9月26日未明、ミシシッピ州クラークスデール付近の国道61号線で、ツアー移動中だった彼女の車がトラックに追突・横転し、右腕を切断するほどの致命傷を負いました。現場に居合わせた医師らの応急処置を経て病院へ搬送されましたが、同日午前に43歳で息を引き取りました。
事故直後、音楽評論家のジョン・ハモンドが「白人専用病院で人種差別により治療を拒否され、血を流し続けて亡くなった」とする記事を雑誌『DownBeat』に執筆したことで、この「人種差別による見殺し説」が全米に広まりました。エドワード・オールビーの戯曲『ベッシー・スミスの死』(1959年)などを通じてこの物語は人種差別の悲劇の象徴として定着しましたが、後の伝記作家クリス・アルバートソンらの詳細な検証により、実際には最初から黒人専用のG・T・トーマス病院へ搬送されており、怪我があまりに重篤だったことが死因であったと歴史的に整理されています。
事故後、彼女の墓は長らく墓石のない状態が続いていましたが、1970年に彼女を敬愛するロック歌手ジャニス・ジョプリンらの寄付によって墓石が建立されました。