アンドレス・セゴビアによるJ.S.バッハの『シャコンヌ』(無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番 ニ短調 BWV 1004の終曲)のギター編曲は、クラシック・ギターの歴史において「サロン楽器や娯楽の器楽に過ぎなかったギターを、フルコンサートホールの表現に耐えうる本格的なクラシック楽器へと引き揚げた歴史的事件」と位置づけられています。
1. 歴史的背景:パリでの初演と衝撃
20世紀初頭まで、ギターは一部の愛好家やスペインのサロンで奏でられるローカルな楽器という扱いが一般的でした。バッハの『シャコンヌ』のようなポリフォニック(多声的)で厳粛な大曲をギターで演奏するなど、当時のクラシック音楽界の常識では考えられないことでした。
* 1935年 パリ初演の衝撃: セゴビアは長年の研究を経て、1935年6月4日にパリのエヴラール・ホール(Gaveau / Évrard)でこの編曲版を世界初演しました。
* 批評家たちの絶賛: 当時、「単音主体のヴァイオリン曲をギターで弾くなど無謀だ」と冷やややかに見ていた音楽批評家や音楽家たちは、その圧倒的なスケール感と豊かな和音に言葉を失いました。フランスの著名な評論家は「バッハ自身がもしギターという楽器の真価を知っていたら、最初からこの楽器のために書いたであろう」と評したと伝えられています。
2. 編曲と演奏の技術的特徴
セゴビアは単にヴァイオリンの譜面をそのままギターに移調したのではなく、ギターという楽器の物理構造と音響特性を最大限に活かした再解釈を行いました。
① 低音域(バス)の付加と和音の補強
ヴァイオリンは弓で弦を擦る構造上、同時に発音できる音数に制約があります(基本は1〜2音、重音でも3〜4音を一瞬鳴らす程度)。一方、ギターは指で弾くため低音の持続や複音の同時演奏が可能です。セゴビアはバッハの低音進行(バスライン)を対位法的に補強し、オルガンのような重厚な和音響きを作り出しました。
② ニ短調(D minor)の響きとドロップD調律
原曲と同じニ短調を採用し、ギターの第6弦(最低音)を通常 E から D に1音下げる「ドロップD調律」を多用しました。これにより、開放弦の低音 D が主音(トニック)として響き渡り、深く荘厳な低音の余韻を確保することに成功しています。
③ 多彩な音色の変化(音色対比)
ヴァイオリンでは弓の圧や速度でニュアンスを出しますが、セゴビアは右指の弾く位置(ブリッジ寄りの硬く金属的な音 ponticello から、指板寄りの甘く柔らかい音 tasto まで)を変えることで、主題や変奏ごとに表情を劇的に変化させました。長調(ニ長調)へと展開する中間部では、まるで木管楽器のような暖かみのある音色で包み込みます。
3. クラシック・ギター界に与えた意義
セゴビアによる『シャコンヌ』の成功は、その後のクラシック・ギターの運命を決定づけました。
* レパートリーの格上げ: ギターという楽器がバッハの複雑な対位法や壮大な変奏曲構造を表現し得ることを証明し、現代のすべてのクラシック・ギタリストにとっての「到達点・必須レパートリー」となりました。
* クラシック音楽界でのギターの地位確立: ピアノやヴァイオリンと同等に、大規模なコンサートホールで単独のリサイタルを開くことができる楽器として社会的に認められる契機となりました。
アンドレス・セゴビアによるJ.S.バッハの『シャコンヌ』ギター編曲
J.S. by Andres Segovia Bach's "Chaconne" guitar arrangement
2026年09月01日